2007年6月3日日曜日

宇野港の想い出⑮完~紫雲丸事故

JR宇野駅前ロータリーには可愛いモニュメント=5月19日午前8時56分、岡山県玉野市築港1丁目で。 現在の宇野駅舎は94年12月3日から使われています。1910(明治43)年6月13日に宇高連絡船とともに開業した旧駅舎は87年の国鉄分割民営化、91年3月16日の宇高連絡船廃止を経て95年3月から解体工事に入り、姿を消しました。旧駅舎は約100m南側の海寄りにあったのだと思います。

列車から連絡船、連絡船から列車への乗り換えは猛ダッシュ。席を確保するため、私も大汗をかきました。特に高松駅では着岸する前から連絡船内では大騒ぎ。出口に長蛇の列をつくり、高知方面や松山方面への列車の待つホームへ我先に駆け出すのでした。いま思うと、当時は指定席が少なかったのでしょうか? 高知への列車は3時間くらいの長丁場でしたから、何が何でも座席の確保が優先されたのでしょう。

最後に「紫雲丸事故」について記しておかなければなりません。高松港を出た宇高連絡船「紫雲丸」(1449総トン)が1955(昭和30)年5月11日午前7時前、宇野港からの大型貨車運搬船「第三宇高丸」(1282総トン)と衝突。紫雲丸が沈没、修学旅行中の広島県からの児童100人を含む168人が犠牲になりました。1960(昭和35)年8月の高等海難審判庁の裁決は、事故原因を両船船長の過失としています。濃霧という気象条件が大きな引き金になったことも確かです。1963(昭和38)年3月19日の高松高裁判決は紫雲丸航海士と第三宇高丸船長を有罪としています。被告・検察側とも上告しなかったため、これが確定審となりました。

私はこの事故を直接知りません。ただ、紫雲丸が1947(昭和22)年6月9日の就航以来、5度も接触・衝突事故を起こしていることを知りました。最初の事故は1950(昭和25)年3月25日未明。この時も沈没して7人の犠牲者を出しています。同船は海中から引き揚げられ再び就航、5年後に国鉄戦後三大事故に数えられる大惨事を引き起こしているのです。

紫雲丸は高松市郊外にある紫雲山(標高200m)から命名されたとのことですが、就航当時から「死運丸」と呼ばれていました。紫雲丸の船長が船を運命をともにしたこともあり、事故の真相は謎に包まれたままです。確かなことは、この事故が契機となって瀬戸大橋の着工計画に大きな弾みが付いたということです。その瀬戸大橋が宇高連絡船を廃止に追い込んだばかりか、船舶事業に携わる多くの方々に大きなダメージを与え、ターミナルとなる宇野港の衰退をも加速させたというのも、皮肉でありますが史実に違いないのです。
LEICA R9+DIGITAL-MODUL-R,28mm
f=16,1/125,-1EV,ISO=100
SILKYPIX Developer Studio 3.0

●序章を含めて16回の連載「宇野港の想い出」が終わりました。次回の連載は、、、秘密です(既に取材は終え、執筆準備を進めています)。これからしばらくは銀塩、デジタルを問わず、色々な画像をUPして行きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。なお、銀塩は比較的古いデータから整理していますので悪しからず。DMRやコンパクトデジタルカメラによる画像は「できるだけ」新鮮なモノをご提供したいと考えています●

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